メドック格付けワインを飲み始めるなら、シャトー・カントメルル

左岸

何故か今まで書いてなかったChâteau Cantemerle(シャトー・カントメルル)をお届けします。

比較的手に入りやすい価格の格付けワインなので、飲んだことがある方も多いのではないでしょうか。

メドック格付けを飲み始めたいならこのワイナリーからで間違いないでしょう!

歴史

中世 現在位置している所から1キロ程度、川に近いところにあり、Château Cantemerle(シャトー・カントメルル)は川を守っていた要塞の一部であったと言われています。
1147年

領主が存在していたという手書きの文献が残っています。

この文献ははSauve Majeure(ソーヴ・マジュール)修道院の有名な「Grand Cartulaire(グラン・カルトゥレール/偉大な特権台帳)」です。

この手書きの台帳は、修道院によって行われたすべての取引が記入されていました。

1147年

同年、十字軍の遠征に旅立つArnaud de Blanquefort(アルノー・ド・ブランクフォール)氏から修道院はいくつもの土地を得ます。

この寄贈はPons de Cantemerle(ポン・ド・カントメルル)の所有であった頃と記載されています。

1274年3月22日

Gaillard de Cantemerle(ガイヤール・ド・カントメルル)とAmanieu Artaud de Cérons(アマニュー・アルトー・ド・セロン)が認知証書に署名しました。

Cantemerle(カントメルル)男爵領はAgassac(アガサック)領に対抗していたとのこと。

1340年 Ponset de Cantemerle(ポンセ・ド・カントメルル)の子孫の一人が領主となりました。
1354年 Cantemerle(カントメルル)の領主がClairet(クレレ/当時の赤ワイン)の樽で税金を納めていたことが分かっており、つまりここでワインが生産されていたことがわかります。
1369年 エドワード3世はLouis Chabot(ルイ・シャボ)をCantemerle(カントメルル)の領主に任命し、臣下から収穫物(当時は主に穀物)の6分の1を受け取っていました。
  Cantemerle(カントメルル)の領主はLandes(ランド)出身のCaupène(コーペーヌ)家の手に渡ります。
  Jean de Caupène(ジャン・ド・コーペーヌ)、Donset(ドンセ)またはDamoiseau(ダモイゾー)が領主になり、息子Médard de Caupène(メダール・ド・コーペーヌ)が15世紀末まで領主でありました。
 

ボルドーの紋章集によると、Caupène(コーペーヌ)家とLa Rocque(ラ・ロック)家の婚姻関係があったと分かります。

Jeanne de Caupène(ジャンヌ・ド・コーペーヌ)がHenry de la Rocque(アンリー・ド・ラ・ロック)と結婚しました。

1510年 彼らの息子のCharles de la Roque(シャール・ド・ラ・ロック)とEcuyer de la Roque(エキュイエ・ド・ラ・ロック)が領主になり、同年1月26日に称号を得ました。
1536年5月15日 Gua(グア)の領主であると同時にCantemerle(カントメルル)の領主であったCharles de la Roque(シャール・ド・ラ・ロック)とEcuyer de la Roque(エキュイエ・ド・ラ・ロック)が称号を得ました。
1575年

ワインを3樽納税したころにより、当時のCantemerle(カントメルル)が12樽分栽培していたと分かります。

この少ない量により、当時のメドック地方はワインの一大生産地ではなく、穀物の生産地で会ったことが分かります。

1579年8月20日 ボルドー議会の2番目の役についていたJean de Villeneuve(ジャン・ド・ヴィルヌーヴ)がCantemerle(カントメルル)を12500リーブルで購入します。
1600年

Pays Toulousain(ペイ・トゥールーザン)、Agenais(アジュネ)、Cantemerle(カントメルル)、Macau(マコー)、Ludon-Dehors(ルドン・デュオール)と他の領主であるJean de Villeneuve(ジャン・ド・ヴィルヌーヴ)はAntoinette Durfort(アントワネット・デュフォール)と結婚しました。

この結婚により、Villeneuve de Cantemerle(ヴィルヌーヴ・ド・カントメルル)はVilleneuve Durfort(ヴィルヌーヴ・デュフォール)と呼ばれるようになりました。

17世紀 Cantemerle(カントメルル)の管轄はGironville(ジロンヴィル)、Maucamp(モーキャンプ)、Sauves(ソーヴェ)など多くの貴族までおよびました。
1643年

Sauves(ソーヴェ)はLouis(ルイ)の兄弟であり、Cantemerle(カントメルル)の領主であったHector de Villeneuve(エクトール・ド・ヴィルヌーヴ)が住んでいました。

Cantemerle(カントメルル)と改名された現在のシャトーがSauves(ソーヴェ)にあたります。

1654年 ジロンド協会の文献によるとCantemerle(カントメルル)の領主であるLouis de Villeneuve(ルイ・ド・ヴィルヌーヴ)はMacau(マコー)の教会で大きなスキャンダルを犯し、神への奉仕を妨害したとして破門を言い渡されたと書かれています。
1698年 Marie-Anne de Loupes(マリー=アンヌ・ド・ループ)の夫であるPierre de Villeneuve(ピエール・ド・ヴィルヌーヴ)はMacau(マコー)の領主でCantemerle(カントメルル)の共同領主でした。
1713年 Pierre de Villeneuve(ピエール・ド・ヴィルヌーヴ)はMacau(マコー)教区の牧師と激しい論争を繰り広げました。
1742年 Pierre de Villeneuve(ピエール・ド・ヴィルヌーヴ)が亡くなりました。
1789年 Pierre de Villeneuve(ピエール・ド・ヴィルヌーヴ)の息子Joseph-Emmanuel de Villeneuve Durfort(ジョゼフ=エマニュエル・ド・ヴィルヌーヴ・デュフォール)は貴族集会に参加し、Macau(マコー)最後の男爵になりました。
フランス革命中 Cantemerle(カントメルル)の城が解体され、Sauves(ソーヴェ)の城(現在のChâteau Cantemerle(シャトー・カントメルル))がVilleneuve Durfort(ヴィルヌーヴ・デュフォール)の主な住居になりました。
  Joseph-Emmanuel Villeneuve Durfort(ジョゼフ=エマニュエル・ド・ヴィルヌーヴ・デュフォール)の死後、革命中にオランダに移住しMacau(マコー)の市長となった息子のJean Villeneuve Durfort(ジャン・ヴィルヌーヴ・デュフォール)[1757~1834]がワイナリーを相続しました。
1834年12月13日

Jean Villeneuve Durfort(ジャン・ヴィルヌーヴ・デュフォール)が亡くなり、息子のPierre Jules(ピエール・ジュール)がCantemerle(カントメルル)を引き継ぎました。

新しいVilleneuve(ヴィルヌーヴ)男爵はまだ成人していなかったので、母親のCaroline Joséphine Françoise Josèphe de Lalande(カロリーヌ・ジョゼフィーヌ・フランソワーズ・ジョゼフ・ド・ラランド)がワイナリーの責任を担っていました。

1845年

隣のブドウ畑のオーナーであるPibran(ピブラン)の新しい所有者であるPierre Chadeuil(ピエール・シャデウイユ)が「Chadeuil Cantemerle Château Pibran(シャデウイユ・カントメルル・シャトー・ピブラン)」とラベルに書きました。

彼は「Cantemerle(カントメルル)」という名前は、Villeneuve(ヴィルヌーヴ)家の私有地だけでなく、その周りの地域にも長い間関連付けられてきたたため、彼のワインに書かれた「Cantemerle(カントメルル)」の文字は正当化されている、と主張しています。

しかし彼のワインの金額はChâteau Cantemerle(シャトー・カントメルル)のそれと比べるととても安く販売され、誤解を招くとされました。

しかし、彼のラベルから「Cantemerle(カントメルル)」の文字が削除され、Pierre Chadeuil(ピエール・シャデウイユ)はChâteau Cantemerle(シャトー・カントメルル)に損害賠償を支払うように命じられました。

1851年 ボルドーの建築家、Henri Duphot(アンリー・デュフォ)により、シャトーに2つの小塔が追加されました。
1852年 Lavergne(ラヴェルニュ)伯爵であるJean-Baptiste Fleuret(ジャン=バティス・フルレ)は「ブドウ畑のうどん粉病と戦う方法」を発表し、彼は最初の実験をChâteau Cantemerle(シャトー・カントメルル)で行いました。
1855年

メドック格付けで5級に選ばれました。

1858年

A. d’Armailhacq(A. ダルマイヤック)は自身の著書Vignes dans le MédocでCantemerle(カントメルル)は91ヘクタールのブドウ畑を所有していて、一部はLudon(リュドン)、Lagune(ラグーン)に位置していて、その他はMacau(マコー)の最も素晴らしい高台に位置していると記載しています。

年間の生産数はファーストワインが160樽、セカンドワインが30樽生産されています。

1ヘクタールの収穫量が19ヘクトリットル程度で、現在と比べるとかなり生産量が低いことが分かります。

1866年

ワイナリーの敷地は400ヘクタールで、内110ヘクタールがブドウ畑でした。

当時ファーストワインが150~160樽、セカンドワインが50~60樽生産していました。

そして収量も1ヘクタール18ヘクトリットルに増えました。

1867年 Château Cantemerle(シャトー・カントメルル)は万博で銀メダルを受賞しました。
1879~1887年

べと病と相まって、Château Cantemerle(シャトー・カントメルル)はメドックで最もフィロキセラの被害を受けたワイナリーの一つです。

この時期の生産は1864~1878年の50%程度でした。

1891年 Abbadie(アバディー)男爵である、Jeanne Armande de Villeneuve Durfort(ジャンヌ・アルマンド・ド・ヴィルヌーヴ・デュフォール)が亡くなりました。
1892年6月29日

3世紀以上にわたるVilleneuve Durfort(ヴィルヌーヴ・デュフォール)家の相続が終わり、ワイナリーが競売にかけられました。

600000フランでネゴシアンCalvet(カルヴェット)が買収し、2週間後にThéophilie-Jean Dubos(テオフィリ=ジャン・デュボ)に売却されました。

1892年

Charlotte Delbos(シャルロット・デルボス)の夫であるThéophilie-Jean Dubos(テオフィリ=ジャン・デュボ)は二人の息子Pierre(ピエール)とBernard(ベルナール)の助けを得てワイナリーを購入しました。

メドック格付け組合の副会長であり、ネゴシアンDubos Frères(デュボ・フレール)の社長です。

1905年

Théophilie-Jean Dubos(テオフィリ=ジャン・デュボ)が亡くなりました。

その後二人の息子Pierre(ピエール)とBernard(ベルナール)がワイナリーを共同で引き継ぎました。

1923年 Pierre(ピエール)が唯一の所有者となりました。
1945年 戦争と1930年~1940年の経済危機の間に、Château Cantemerle(シャトー・カントメルル)のブドウ畑は25ヘクタールまで減りました。
1961年

Pierre Dubos(ピエール・デュボ)はワイン造りの才能があり、ボルドーワイン業界に影響を与える人でした。

そしてこの年発表されたINAOによるメドックの格付け計画でChâteau Cantemerle(シャトー・カントメルル)が1級に選ばれたことで証明される様に、ワイナリーの評判に大きく貢献しました。

1962年 Pierre(ピエール)の死後、2人の娘Bernadette(ベルナデット/Clauzel(クローゼル)の妻)とPia(ピア/Binaud(ビノー)の妻)がわいアンリーを引き継ぎます。
~1977年 ネゴシアンBeyerman(ベイエルマン)の社長であるHenri Binaud(アンリー・ビノー)が自身の甥のBertrand Clauzel(ベルトラン・クローゼル)とワイナリーを管理していました。
1977年

Bertrand Clauzel(ベルトラン・クローゼル)が一人でワイナリーを経営していました。

ブドウ畑は20ヘクタール程度でした。

1980年12月

公共工事や建物の相互保険会社であるSMAグループが買収しました。

当時、ボルドーのワイナリーを購入した最初の保険会社です。

現在は多くの保険会社が彼らの後に続き、保険会社所有のワイナリーは数千ヘクタールを超えています。

 

SMAグループは1970年代、投資の多様化を図っていました。

1976年、Château Margaux(シャトー・マルゴー)も投資対象でしたが、グループの他の投資額と比べて高すぎました。

しかし、1855年の格付けに選ばれたワイナリーに投資をするという考えは残っており、1980年にグループの新しいディレクターマネージャーAlbert Parment(アルベルト・パルメン)が就任しました。

Jean Cordier(ジャン・コルディエール)と共に、ボルドーの7件のワイナリーを訪問し、最終的にCantemerle(カントメルル)を選びました。

Cantemerle(カントメルル)を選んだ理由としては、歴史的に70ヘクタールあった畑の内20ヘクタールしか栽培されておらず、ボルドーで最も美しい庭園を持つワイナリーの一つだったからです。

また、1855年の格付けに選ばれていることもあり、そのポテンシャルにも注目していました。

1981年 設備の改修とブドウ畑の植え替えをすぐに始めました。
 

最初はブドウ畑の改修を行いました。

33ヘクタールが50年近く休ませていたので、この場所にブドウ畑を2年かけて植えました。

畑の密度はメドックの伝統に基づき1ヘクタールに8000~10000株が植えられました。

 

同時期に醸造室の改装も行いました。

この時の最優先事項は衛生面でした。

ブドウ畑が増えたことにより、将来収穫されたブドウを醸造するために2200ヘクトリットルのステンレスタンクを導入しました。

さらに将来のために、庭園内に熟成セラーを新しく建設しました。

昔のタンクから採った品質の良い木を使い、6基、100ヘクトリットルの小さな木製タンクを造りました。

この木製のタンクからは品質の良いワインが生産されました。

1990年

新しく3200ヘクトリットルの木製タンクが納品されました。

Cantemerle(カントメルル)は伝統的な木製タンクに戻った最初のワイナリーの可能性があります。

1990年代 ブドウ畑が67ヘクタールまで広がりました。
  10年に渡る設備投資が終了しました。
1993年 ボルドーのネゴシアンがワイナリーの経営を行うことになり、現在も同じチームがCantemerle(カントメルル)を指導しています。
1996年5月

プリムール1995年から、Cantemerle(カントメルル)のワインの「オープン」マーケティングが行われました。

この時、Cantemerle(カントメルル)の偉大なワインの約70%が55のネゴシアンによって予約されました。

1996年

同時期にセカンドワイン、Les Allées de Cantemerle(レ・アレ・ド・カントメルル)を造りました。

このセカンドワインもネゴシアンによって世界に販売されています。

1997年

1980年代初頭に大規模なブドウ畑の植え替えが行われました。

この時20%カベルネ・フランが栽培されており、これは土壌のポテンシャルを発揮できるものではありませんでした。

そのため、二重継ぎ(接ぎ木された樹にさらに接ぎ木すること)が行われました。

これにより、Cantemerle(カントメルル)のカベルネ・フランの割合が6%まで減少しました。

1999年

Cantemerle(カントメルル)とLa Lagune(ラ・ラギューヌ)の間に位置しているコミューン、Ludon(リュドン)のブドウ畑20ヘクタールが売りに出されていました。

10年かけたブドウ畑の再構築と含め、Cantemerle(カントメルル)は90ヘクタールのブドウ畑を所有することになりました。

生産ワイン

年間60万本程度生産されています。

CHATEAU CANTEMERLE

Château Cantemerle(シャトー・カントメルル)は樹齢の高い樹から採れたブドウから造られたワイン

ワイナリーで生産されているワインの70%がこのファーストワインです。

基本的にこのブログでお伝えしているのはこちらのファーストワインなので、興味のある方はこの先をお読みいただければと思います。

LES ALLÉES DE CANTEMERLE

Les Allées de Cantemerle(レ・ザレ・ド・カントメルル)若木から採れたブドウから造られたワイン

ファーストワインと同様に16か月熟成

その内50パーセントはタンクで熟成され、残りの50%を3年使用した樽で熟成します。

ファーストワインに比べると柔らかいワイン。

ブドウ畑

Macau(マコー)とLudon(リュドン)の間に98ヘクタールのブドウ畑を所有しています。

その内生産に使われているのは95ヘクタール

畑の密度は1ヘクタールに8300株です。

これは、根をできるだけ地中深くに伸ばすため。

シリコを含む石の多い土壌

石はガロンヌ川を通って、ピレネー山脈から運ばれてきました。

ブドウ品種は

  • 68%カベルネ・ソーヴィニョン
  • 22%メルロー
  • 5%カベルネ・フラン
  • 5%プティ・ヴェルド

が栽培されています。

ブドウの平均樹齢は35年と、ボルドーの平均的な樹齢です。

収穫と選果

収穫は手摘みで行われます。

そして選果も丁寧に。

除梗もされ、ブドウの実のみで醸造が行われます。

醸造施設

ネオクラシック様式の建物がとても美しい。

タンクはステンレスコンクリート木製と3種類を所有しています。

コンクリートと木製タンクはファーストワイン用、ステンレスタンクはセカンドワイン用のワインを醸造します。

それぞれの区画は別々に醸造されています。

タンクで醸造されている期間は28~30日程度です。

熟成

ワインの柔らかさを表現するために、16か月熟成

ファーストワインは内12か月オーク樽熟成です。

これはボルドーの多くのワイナリーが行う熟成期間より少し短いです。

新樽使用は35%。

12か月熟成を行い、ブレンド、さらに4か月熟成を行います。

まとめ

ブドウ品種

68%カベルネ・ソーヴィニョン

22%メルロー

5%カベルネ・フラン

5%プティ・ヴェルド

タンク ステンレス、コンクリート、木製
熟成期間 16か月
新樽使用率 35%

ワイナリー情報

Château Cantemerle(シャトー・カントメルル)

住所;Château Cantemerle, 33460 Macau

電話;+33 5 57 97 02 82

参考記事

1855年メドック格付けまとめ

ワイナリーSNSまとめ、メドック編

メドック格付けワイナリー、セカンドワインリスト

2009年ボルドー左岸格付け by Liv-ex

2018年野田祥子的メドック格付け

AOCメドックについて

メドック地方の土地柄を詳しく!

ワイン醸造:アルコール発酵について。

AOCボルドーで認められている品種(赤/白/ロゼ)

ボルドーワイン=ブレンドワイン

最近のボルドーワインについて

ファーストワインとセカンドワイン…って何?

材質別タンクのメリット・デメリット

最後に

久しぶりにボルドー格付けワイナリーのご紹介でした。

時々訪問しているのにブログに書いていないワイナリーがある…。

実際にまだ全部制覇はできていないので、今後もワイナリー訪問続けていきたいと思っています。

有名ワイナリー訪問が楽しいのはもちろんのこと、マイナーワイナリー訪問も楽しい今日この頃。

カントメルルは比較的安く手に入る格付けワインで、ボルドーらしさがしっかり表現されていながらもその柔らかさが特徴。

是非飲んでみてください。


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